
尺八が書物に記されたのは6世紀頃である。7世紀、すでに尺八が雅楽に使われていた。この頃尺八は雅楽尺八として知られており、9世紀まで演奏されていた。当時、中国と日本の国交が頻繁に行われていたため、他の楽器と一緒に伝わったと思われる。
東大寺の正倉院に8本の雅楽尺八が保管されている。8本のうち5本は竹で作られており、残りの3本はそれぞれ翡翠、牙、石で作られている。そしてそれらは竹の節に見えるよう彫刻が施されている。
また東京国立博物館には、聖徳太子のものと云われる雅楽尺八が1本保管されている。
言い伝えによると、13世紀に法燈国師により普化宗禅が日本に伝えられる。当時、普化宗僧侶たちは尺八を楽器ではなく法器として考えていた。
禅宗の一派である普化宗は、僧侶から後に武士階級によって独占的に構成されていった。武者修行に出た彼らは虚無僧と呼ばれた。
虚無僧
江戸時代に入ると、長期にわたる平和を維持し、政治的陰謀者を排除せんとする徳川幕府によって確立された治安維持において虚無僧は重要な役割を果たした。この国内政治安定により265年間の平和が保たれた。

18世紀、普化宗尺八から琴古流という新しい流派が生まれた。創設者の黒沢琴古は、古典曲の編曲や作曲など尺八の新しい方向性を生み出した。また琴古流は数多くの書物を残している。
1871年の明治維新とともに、普化宗は徳川政権下での活躍的なかかわり合いとその役割を理由に、入れ替わった新政権によって解体された。
それ以後、独奏より三曲が重要視され、演奏会などをとおして商人(町人)階級へと尺八が普及していった。
しかしながら、普化宗尺八の伝統、師匠から弟子への教えは、宮川如山、小林紫山、岡崎明道、 高橋空山、藤由越山という偉大な師匠達を通して伝承されてきた。彼らは限られた普化宗尺八の伝承者として、受け継いだ伝統を重んじ、演奏家として偉大な功績を残してきた。そしてついに新しい次元を超えた音楽スタイルを確立した。
1883年、解体された普化宗尺八の復活を願う演奏家により明暗寺会が設立された。ここから明暗流が生まれた。
19世紀終わりに、琴古流と並ぶもう1つの大きな流派である都山流が生まれた。この創設者である中尾都山は関西に生まれ、その地域一帯で都山流は発展していった。都山流の古典楽曲は、都山自らが作曲した曲である。現在、門下生の最も多い流派である。
様々な流派が生まれたことにより、尺八の演奏スタイルにも変化が起こり、時代の流れと共に発展してきた。
時 の流れと共に流派により尺八の演奏スタイルが大きく変わり、尺八本来のやわらかい音色から雑音ともいえる乱れた音が尺八の新しいスタイルとみなされ、重く 力強さばかりが目立ち、それにより旋律の奏でる繊細さや軽快さなどの表現に乏しい。ある種、音楽的デカダンスの出現ともいえるが、それもその時代を象徴す るスタイルに過ぎない。いずれにしても、良きにせよ悪きにせよ尺八が進化しつづけていることは確かである。
他の尺八
一節切尺八
幻の笛といわれる一節切尺八は1尺1寸1分(約34cm)で、真竹の短い縦笛である。節が1つだけあることから一節切と呼ばれた。
ある説によると、室町時代の文明年間(1469~1487年)に中国の福建省の僧侶蘆庵によって伝えられたという。室町時代から江戸時代中期まで盛んに吹かれていた一節切は、18世紀末には散失した。


貴族・僧侶・武家に好まれ、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などが吹奏していたという。
一休宗純(1394~1481年)も尺八の名手とされており、「紫野」を作曲したと伝えられている。
忍流尺八

あまり知られていないが、甲賀流の忍者が伝承してきた忍流尺八がある。忍流尺八は、忍者が合図として使ったり、侵入したところの人々に催眠術をかけたり、自然や環境と合体するために精神性ある道具として使用されていた。
忍流18代山田庄三郎(号を忍静山)、19代宮川義信、20代高橋空山と現在に至り秘曲「月の3曲」を含めた31曲の名曲が伝承され残っている。現在では忍流尺八は普化宗尺八が伝承している。
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